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俺をディスる幼馴染への制裁は、遅効性の甘美な毒薬

第13話 二人の登校


 今日は朝から灰色の雲が厚く垂れ込めていた。

 まだ降り出してはいないが、天気予報を見るまでもない。
 俺は玄関の傘立てをかき回す。

 骨の折れた古びた傘の中、まだ無事なビニール傘を選び出す。


「じゃあ行ってきます」


 返事がないと分かりつつ、玄関を出る時にそう言う癖は抜けていない。


 ―――昨日のYu-noとの会話が気になり、今日は早く目が覚めた。
 なんとなくの気まぐれで学校までの数キロを歩いてみようと家を早く出た。


 ……いや、気まぐれなんかじゃない。
 俺は自嘲気味に笑う。


 朝からパソコンを起動しようか迷った挙句、決め切れずに逃げ出したと言うのが正解だ。



 ―――嫌だ 辛い つらい



 Yu-noの拒絶にも似た言葉に、自分でも意外なほど打ちのめされ―――



 ―――また 明日



 この言葉に同じくらいの強さで救われた。
 自分自身の感情が、Yu-noの言動に振り回されているのを認めざるを得ない。


 夜明けからさほど時間は経っていない。
 街角は人気が無く、時折、ゴミ捨てに出る老人とすれ違うばかりだ。


 だから黒塗りの大きな車が横付けしてきた時。
 映画の一場面でも見ているように、それが実際の光景だと理解するのに時間がかかった。


「雨が降りそうよ。乗っていきなさい」


 後部座席の窓が開き、声を掛けてきたのは日南《ひなみ》だ。
 俺は不思議なほど冷静な自分に驚きながら、用意した笑顔を顔に浮かべて車に乗り込む。


「おはよう、日南。随分早いね」


 日南はそれには答えず、詰まらなそうに窓の外を眺めたままだ。


 赤信号で車が停まると、抑揚の無い口調で話し出す。


「―――昨日、夜縁《よすが》に会いに来たのね」
「ああ。夜縁ちゃんスマホ買ったんだね。凄く嬉しそうだった」
「私はまだ早いと言ったんだけど―――パパは夜縁には甘いのよ」


 相変わらず窓の外を向いたまま、不満げに言い捨てる。


「―――会いにも来ないくせに」


 ……答える必要のない言葉には沈黙で返す。
 ただ聞いて、受け止めてやる―――ふりをするだけだ。


「それに―――昨日はあの日だったものね」


 ゆっくりと俺を振り向く日南。
 その目に浮かぶのは挑発的な色。


「毎年偉いわね。お墓参りみたいなものかしら?」
「止めてくれ」


 間髪入れず言い放った俺は日南を睨みつける。


「日南。いくら君でも言っていいことと悪いことが―――」
「悪いこと?」


 面白がるように日南の唇が歪む。


「そうね。私、悪い子よ。悪い子は悪いことを言うし―――悪いこともするわ」
「……」


 俺の沈黙をどう受け取ったのか。日南はわざとらしく表情を緩める。


「ねえ、私も夜縁《よすが》のことは可愛いのよ。妹だもの」


 日南は俺の視線を正面から受け止めると、今度は冷たく俺を睨み付ける。


「だから、単なる同情で近付いて欲しく無い」
「同情とかじゃない。君と同じで、夜縁ちゃんは昔からの友人だ」
「……私と同じ?」


 日南は鼻で笑う。


「姉として聞き捨てならないわね。夜縁に私と同じことをしたの? それとも―――」


 日南は俺の太腿に手を乗せると、悪戯っぽくしなだれかかってくる。


「―――されたの?」
「ひな―――!」


 一瞬、頭の中が白く染まり、言葉が喉で詰まる。
 俺じゃない。あれは君が――――――

 ……いけない。
 俺は大きく息を吸い、その倍の時間をかけてゆっくりと吐く。

「……止めてくれないか。野々原さんが聞いている」
「あら、野々原は口が堅いのよ」


 運転手の野々原さんは俺達が出会った頃から姉妹の運転手をしている。
 寡黙で必要最低限の言葉以外、口にしているのを聞いたことは無い。


「だから、気にすることは無いわ」


 日南の手が俺の首に伸びてくる。
 ガーゼの表面を触れるか触れないかでゆっくりとなぞる。


「昨日は悪かったわね。病院にはちゃんと行った?」
「いや。だけど、もう血は止まったよ」
「あら、だめよ。ちゃんとしないと」


 日南は俺の答えを予想していたのだろう。
 小さな救急箱を取り出す。


「ちゃんと消毒して薬を塗らないと」


 再び手を伸ばしてくると、首のガーゼに指をかける。


「一旦剥がすわよ」
「ああ」


 一瞬身構えるが、予想に反して日南は優しくガーゼを剥がす。気遣う様に傷口を覗き込む。


「思ったより深そうね。……まだ痛む?」
「いや、大丈夫」
「そう、良かった。昔から歯並びは褒められるの」


 日南はアルコール綿の個包装を破る。
 手慣れた仕草で俺の傷口を拭きながら、独り言のように呟きだす。 


「知ってる? トガリネズミの一種は唾液に毒があるんですって」
「ネズミ……?」


 傷口を丹念に拭うと、赤黒く染まった小片を目を細めて眺める日南。


「……あんな間抜けな見た目なのにおかしいわ。そう思わない?」


 そう言うと日南は乾いたガーゼで優しく傷を押さえる。


「まだ少し腫れてるわね。抗生物質入りの軟膏があるわ」


 日南は軟膏を取り出すと指の先に絞り出す。
 ……首筋に思い出す日南の指の感触。


「自分で塗るから」
「動かないで」


 日南の指が俺の首筋を這うように上から下に伝っていく。
 ……撫ぜるように動く指先が、傷口の上で止まった。


「腫れてるっていうことは、身体の中に入った異物をあんたの免疫細胞が殺してるってことよね」
「……かもね」
「この傷が赤い内は、私の口から入った異物があんたの身体を巡ってるってことなのかしら」


 ……日南の言葉に思わず身体が強張る。
 毒が血に乗って、身体中に回るイメージが脳裏に浮かぶ―――


「いくらかは殺されずにあんたの身体で生き残るのかしら。ね、どう思う?」
「どうかな。口内の常在菌はありふれたものも多いから、普通に残るかもね」
「―――じゃあさ、私の身体にもあんたの一部が残ってると思う?」


 日南は突然俺の首に両腕を回すと、傷口に舌を当てた。
 そして、嘗め上げるようにゆっくりと舌を這わせてくる。


「っ! やめ―――」


 怖気立《おぞげた》つほどの寒気が背筋を伝う。
 ……俺はそれを顔に出さないように口をつぐむと、日南のやりたいようにさせてやる。


「……オピオルフィンって知ってる?」


 時間の感覚の無くなった頃。俺の首から口を離した日南は耳元で囁いた。


「人の唾液に含まれている化合物で、モルヒネより強い鎮静作用を持つんだって」


 ―――日南の指が唾液に濡れた俺の肌を、音を立てながら撫で回す。


「悪かったわね。消毒からやり直しかしら」
「……貸してくれ。自分でやるから」


 俺は首筋をアルコール綿で丹念にふき取ると、新しいガーゼを貼り付ける。


「……中途半端な気持ちなら、夜縁《よすが》に深く関わらないで」
「俺は友人として夜縁ちゃんの支えになりたいと思っている。日南の考えとぶつからないと思う」
「友人ねえ……」


 日南はシートに座り直すと、背筋を伸ばす。
 その顔からは先程までの嗜虐的な色は消え失せ、代わりに気難し気で酷薄な表情が張り付いている。


「―――夜縁は中学を出たら設備の整った海外の学校に行かせるわ」
「海外?」


 あまりに突然の宣言に俺はオウム返しをするしかできない。
 失礼を承知で言えば、日南の一家にとって海外が営みの場所になるイメージがわかないのだ。


「お金と立場さえあれば、あの子が暮らしやすい国はいくらでもあるわ。あんな身体の夜縁が生きていける環境を用意するのは家族の義務だわ」
「分かるよ。ただ、夜縁の意志はどうなの?」
「夜縁の……意思?」


 瞬間、日南の瞳に赤い炎がともる。


「……みなまで言わせる気? アメリカなら夜縁を知る人もいない。日本にあの子を縛るものを作らせたくないの。あの日以来―――夜縁の時は止まっているのよ?」


 ―――俺は何かを話そうとする。しかし舌が喉に貼り付いたように動かない。



 ――――――響くブレーキ音――――――直後に響いてきた鈍い音


 八年たった今でも、耳にこびり付いて離れない——————



 ……気が付けば痺れる身体を抱えるように、シートに蹲っている自分に気付く。
 浅く早い呼吸が肺を叩く。


 ―――いつもの過呼吸の発作だ。 

 カバンに入れた紙袋を取り出そうとするが、震える手で開けることができない。



 涙でにじむ視界の中、日南が俺の口に紙袋を当ててくる。
 震える手で紙袋を掴みながら、慎重に息を吸って吐くことだけに意識を向ける。 


 日南の手が優しく俺の背中をさする。




「……あなたは夜縁の優しい“お兄ちゃん”……それ以上はだめよ?」